前回の「波乱万丈な僕のチルい若い頃の話 – 日本で狂ったデザイナー集団との出会い」の記事の続きです。
実は当時の先輩たちもアパレルだけで食べていくのはキツかったらしく、時給が良かったWebの仕事もやっていた。それに色々話を聞くとデザインよりもプログラム言語の方が得意と聞いてびっくりした。その時に先輩に「Webは今からの時代絶対来るから勉強したほうがいいし、今も時給は普通の仕事に比べて高いからやってみなよ」って言われては二つ返事で「はい、やります」と答えた。
この決断があったからHTMLもCSSもPHPも描けるようになったから今となっては嬉しいけど、スタートはいきなり有料サーバーを借りて、ブログを開設するのがスタートラインだった。テンプレートの一部を修正するくらいの軽い作業だったけど、フォントの大きさを変えたり、色を変えるだけですごい幸せだった。せっかくだからもっと勉強したいって気持ちも出てきたし、ブログも書きたいって気持ちがあって色々書いてた。そして、気付いたら、もう今年で17年もブログ書いた。※2023年現在
生まれて初めて触るブログは僕にとっては完全にオモチャだった。
何かよくわからない記号を入れると文字が太くなったり、色が変わったり。だけど、コードを入れるとレゴみたいに色々な形になっていくブログは楽しかった。多分ブログからスタートしてなかったWeb言語は今でも書けなかったもしれない。そう思うと人生って適当に見えて、面白いことの連続だなと思う。そんな感じで数ヶ月色々トライアンドエラーしてたら「あれ?Webの仕事できるんじゃね?」って勘違いをし始めた。そして、多少触れる程度のレベルでWebに関係する仕事を探したら時給が想像以上に高くて魅力的だったけど、未経験者はNGの会社が多くて愕然としていたら1社だけ「パソコン触れるなら未経験者OK」と書かれた求人があった。この会社の社長さんこそ、自分を25歳の時に始めてアジアに連れてってくれた今でもお世話になっている社長の「Iさん」だった。
初めて僕を雇ってくれた「Iさん」は自分の中で未だに憧れ続ける先輩の1人で、当時彼の会社は中国で買い付けたものをオンラインで販売している小さな3名の会社を経営していた。仕事内容は商品写真を撮影して、加工して、Webサイトの更新する人を探して、面接の時に「HTMLとかCSSできる?」と質問をされたけど、まだ毛が生えた程度だったけどなんとかなると思って「出来ます!」と答えた結果、僕を信用して採用してくれた。
だけど、働いた初日に僕のポンコツぶりはバレた。
僕は社長が思っていた以上に使えなかった。お願いされるたびにググって、低いクオリティーの物を提出してたからね。当時は徹夜でソフトを触ってたけど、数カ月でマスターできるほどPhotoshopもIllustratorもWeb言語も簡単じゃないこともあって、かなり落ち込んでた。そんな自分を見かねて社長は会社のお金を使って僕をパソコン教室に通わせてくれた。人を雇ってる今だからこそ、その決断ができた社長はすごいと思う。それから6ヶ月パソコン教室に通って、教科書片手に頑張って基礎を覚えた。と言っても負けず嫌いの僕はなるべく自宅で予習して、パソコン教室ではわからない部分だけ徹底的に教えてもらった。そんなこともあって半年後には簡単な作業はできるようになっていた。
それから半年後にはニューヨークに短期的に移住して、ニューヨークで日本でやってた仕事をやらせてもらっていた。1年に1回3ヶ月最大滞在できるまでの期間滞在する生活を始めて、気が付けばそんな生活を25歳まで続けていた。「なんで毎年ニューヨークに行ってたの?」と自分に聞いたら「当時の僕には「ニューヨークに毎年行く」ことくらいしか誇れるものがなかった」というのが本音と答えそう。
この”ニューヨークへ逃げ込む”現実逃避は7年間続いたけど、手元に残ったのは思い出と借金だけだった。
(次の記事:波乱万丈な僕のチルい若い頃の話 – 現実逃避でニューヨークに毎年通う人生)
※この記事は2021/01/25に公開した情報になります。
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